2016年10月スタートの朝ドラ『べっぴんさん』で、主役の芳根京子演じる坂東すみれのモデルとなった坂野惇子とはどんな女性だったのでしょうか?
ベビー服メーカー、ファミリアの創業者として、ものづくりに情熱を注いだ坂野惇子。
坂野惇子を支えた夫・坂野通夫とはどんな人だったのか?
お嬢様育ちだったという坂野惇子の実家、家系図、画像などから、坂野惇子の生涯を追ってみました。
朝ドラ『べっぴんさん』のモデルは?
引用元:nhk.or.jp
朝ドラ『べっぴんさん』で芳根京子が演じる主役の坂東すみれのモデルとなったのは、坂野惇子(ばんの あつこ)さん。
ベビー・子供服メーカーの名門、
ファミリアの創業者の一人です。
株式会社ファミリアって?
兵庫県神戸市中央区に本社を置く子供服を中心とするアパレルメーカー。
皇室御用達ブランドですね。
会社の規模は、
社員:825名(男性88名、女性737名)
年商:119億9200万円
(※いずれも2016年1月期)
坂野惇子(ばんの あつこ)プロフィール
・1918年4月11日生まれ。
・2005年9月24日没(満87歳)。
・兵庫県神戸市出身。
・佐々木八十八(ささき やそはち)氏の三女。
経歴
・1931年 甲南高等女学校(現 甲南女子大学)に入学。
・1936年 甲南高等女学校卒業。
・上京して、東京女学館高等科の聴講生に。
・東京女学館高等科、伊藤茂平研究所を卒業。
家族
家系図
引用元:nobunaga-oda.com
父親
繊維卸売業「佐々木営業部(レナウン)」の創業者、
貴族院議員も務めた
佐々木八十八(ささき やそはち)氏。
夫
坂野惇子の旦那さんは、
山口銀行総理事・坂野兼通の子息、
坂野通夫(ばんの みちお)氏。
引用元:familiar.co.jp
1940年5月、23歳で結婚しました。
男尊女卑が日常だった戦後の日本で、
妻のビジネスに深い理解を示した人です。
坂野通夫氏は、佐々木営業部を退職してファミリアに入社。
代表取締役社長として、経営には疎かった4人の主婦達を強力にバックアップしました。
う~ん、素敵な旦那様だったんでしょうね~。
写真からも仲むつまじい二人の様子がうかがえます。
子供(娘)
1943年に長女を出産。
孫
現・株式会社ファミリア代表取締役社長の岡崎忠彦氏(46歳)。
アメリカのデザイン会社で修業した後、
2011年、社長に就任。
英語の小文字を使用したファミリアのロゴは、忠彦氏の手によるものです。
ファミリアを創った4人の主婦達
「赤ちゃんにも、お母さんにも、誠実な製品作り」
をポリシーに、
終戦まだ間もない1948年に、
4人の主婦が始めたベビーショップが前身となったファミリア。
今回朝ドラのモデルとなった、坂野惇子さん以外の3人の女性を紹介します。
・坂野惇子
・田村枝津子(のちに江つ子と改名)
・田村光子
・村井ミヨ子
田村江つ子(たむら えつこ)
・1919年生まれ。
・榎並充造(バンドー化学社長)の次女。
・甲南女学校で坂野惇子のクラスメイト。
・特技:手芸、絵。
坂野惇子さんともっとも長い付き合いの人物です。
得意な絵を生かし、
創業当時のファミリア商品のほとんどの図案を作成しています。
田村光子(たむら みつこ)
・1907年生まれ。
・田村駒次郎(田村駒株式会社創業者)の長女。
・田村江つ子の義姉。
洋裁を担当。
自宅の庭に岡本研究所を造り、
生産と品質管理を一手に担いました。
村井ミヨ子(むらい みよこ)
・1923年生まれ
・中井栄三郎(双日株式会社の常務取締役)の長女。
ニットの手編みやキャラクターの企画プロデュースを担当。
4人とも正真正銘、筋金入りのお嬢様です。
いわゆる「深窓の令嬢」ですね~。
娘時代を学業とお稽古事で過ごし、
やがて結婚して主婦となっていた4人が、
なぜベビー服のショップを立ち上げることになったのでしょうか?
そこには4人の主婦達の壮絶なドラマがあったのです・・・!
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ファミリアができるまで
神戸大空襲を受け、姉を頼って岡山県に疎開していた惇子さん。
1945年8月、終戦を迎えたものの、
幼い娘を抱え、戦地に赴いた夫の消息を案じる不安な日々・・・。
戦後の預金封鎖やインフレ政策によって徴収される財産税に途方にくれた惇子さんは、今後の生活について、幼馴染の尾上清氏に相談します。
尾上清氏「今までとは違うのですよ。もう昔のお嬢さんではいけない。これからは自分の手で仕事をし、自分の力で生きていくのです。一労働者になりなさい。働く気になったら、出ていらっしゃい。生地でも売る仕事を作ってあげましょう。」
この言葉に、
お嬢様育ちの惇子さんは衝撃を受けます。
そして、父からも
父「もう時代は変わってしまったのだ。清さんが言うように、頭を切りかえ、健康にさえ気をつけてくれるのなら、誰も皆、働くというのはいいことだと思うよ」
とアドバイスを受け、
惇子さんは働こうと決心します。
運命を変えたハイヒール
夫が無事帰国し、
1946年5月、疎開先から兵庫県尼崎市の塚口の夫の兄の借家へと移り住みます。
最低限度の生活必需品さえ揃えることのできない不便な生活の中、
坂野惇子「やはり何か働いて収入を得なければならない」
と、家で育児をしながらできる洋裁を選び、
近所の人に頼まれて子どもの洋服を縫うことから仕事を始めました。
しかし仕立て代を現金で請求する勇気がなく、
お礼はいつも品物でした。
1947年から、昔習い覚えた手芸をもとに、
村井ミヨ子や姪、近所の人達に週1回自宅で刺しゅうや編み物を教え始めます。
しかし、週1回のお稽古では収入を得ることはできず、
1948年、惇子さんは神戸三宮センター街の「モトヤ靴店」を訪れます。
坂野惇子「今日はお願いがあってきましたの。昔、作ってもらったハイヒール、一度も履いていないので、誰かに売ってくださらないかしら」
惇子さんが売ろうとしていたのは、
まっさらな6足のハイヒール。
惇子さんの嫁入り道具にと、
「モトヤ靴店」の店主・元田蓮氏が特別に用意した、外国製のシューズケースに納めたものでした。
元田氏「いけません。これはお嬢さんのために作った靴です」
坂野惇子「それは、私だって手放すのは惜しいわ。でも空襲で焼かれ、売り食いする品物があまりないのよ」
元田氏「お気持ちはわかりますが、これを売るのだけはやめていただけませんか」
靴を売りにきたものの、
元田氏の言葉に困った惇子さんは、
ハンドバッグから子供の写真を取り出して見せます。
写真を入れたお手製の写真ケースは、
綿スエードの布地で作った定期入れ風のもので、
表と写真の回りには小花の刺しゅうが美しく施されていました。
元田氏「この写真ケースはきれいですね。どこで買われたのですか」
坂野惇子「私のお手製よ。ほら、これも!」
カトレアの花が大きく立体的にアップリケされた手提げ袋に、
元田蓮氏「ほう・・・たいしたものですね。そうだ、こんな手仕事の物を作ってお売りになったらいかがですか。うちの陳列ケースを提供しますよ」
この出来事について、惇子さんの孫・岡崎忠彦社長は、
孫・岡崎忠彦社長「ハイヒールの話はおばあちゃんから何度となく聞かされました。よほど印象に残った出来事だったんでしょうね。残念ながら、そのハイヒールはもう見当たりません。今思うと、おばあちゃんは〝女性力〟のとても強い人でした。それはガツガツ仕事をするタイプではなく、周囲の人がこの人のためなら何か手伝いをしたくなる。そんな魅力をもつ人でした。それから、私が覚えているおばあちゃんは極端に睡眠時間の少ない人でしたね。仕事から戻っても夜遅くまで手紙を書いていたのがとても印象に残っています」
と語っています。
妻を支えた夫達
惇子さんは早速、夫や、
親友の田村江つ子さんに相談しました。
店を持ち、商品として販売することには不安がありました。
しかし夫は、文句なく賛成します。
田村江つ子の夫・田村寛次郎氏も
田村寛次郎氏「これからは、女性も家庭にじっとしている時代ではない」
と、積極的に働くことを勧めました。
非常に前衛的な旦那様達ですね~。
未だに女性が働くことにマイナス意見を持っている男性がいる中で、
当時かなりめずらしかったのではないでしょうか。
田村江つ子さんは、義姉の田村光子にも相談し、
田村光子さんの夫・田村陽氏も賛成。
3人の夫・坂野通夫氏、田村寛次郎氏、田村陽氏が集まり、女性たちに手芸店を始めることについて、積極的に応援しようと、具体的な方法を話し合いました。
坂野夫妻と交流があった村井ミヨ子さんにも声をかけ、
1948年12月4日、
4人の主婦はファミリアの前身となる
「ベビーショップ・モトヤ」を開店したのです。
ベビーショップ・モトヤ開店
「モトヤ靴店」の中で、たった2台の陳列ケースだけで
スタートした「ベビーショップ・モトヤ」。
ケースに陳列された商品は、
・あかちゃんの肌着
・ベビー服
・アップリケや手刺しゅう入りのよだれかけ
・エプロン
・子ども服
・手編みのレギンスやサックコート
など。
お嬢様4人が商売を始めるということで、
「わがままな奥様連中のお仕事だから、1年以上は続かないだろう」
などとウワサする人もいました。
が、初日の売り上げはなんと4万円!
今の価値に直すと大体約30万円くらいになります。
その後も製品の供給が追いつかないほど、
売り上げが伸びました。
お互い主婦として母として失格しないよう、
家庭と仕事の両立を考え、
仕事を分担し、驚異的に働いた4人。
坂野惇子「睡眠時間が短くてもあまり気にならなかった」
そんな4人のものづくりに対する誠意が、
伝わったのでしょう。
戦後3年目、敗戦のイメージは薄れかけていましたが、まだまだ衣料品が乏しく、街には洗えばすぐ剥げるような粗悪な衣料品が出回っていた時代。
「ベビーショップ・モトヤ」の製品は、
刺繍糸や生地に外国製の超一級品を使用して、異彩を放っていました。
当時売られていたジャンパースカートセットがこちら↓↓
う~ん、今見てもオシャレですよね。
生地の質の良さも画像から伝わって来ます。
戦前から蓄えていたフランスの刺しゅう糸や、英国製の毛糸、珍しい刺しゅう用の布地など、良質なものを使って生産しているため
・洗っても色落ちしない。
・洗濯後も型くずれしない。
と、「ベビーショップ・モトヤ」の製品はたちまち評判になり、
日に日に口コミで広がっていきました。
ファミリア設立
1949年、モトヤ靴店の西隣の万年筆店が移転したため、ベビーショップ・モトヤは万年筆店の後に入り、モトヤ靴店から独立します。
独立店舗となってしばらくした頃、
隣接する南隣りにあるレナウン・サービスステーションが撤収する話が浮上します。
持ち主の元田氏は、
元田氏「あなたたちになら貸してもいい」
と、4人の仕事を本格的な会社組織にすることを熱心に勧めました。
こうして4人は事業化を決心し、
1950年4月12日、株式会社ファミリアが誕生したのです。
田村光子さんの夫・陽氏が描いた設立時の店舗がこちら↓↓
会社名「ファミリア」の由来
坂野惇子「なにか子どもと母親にむく、家族的なという意味を持つ社名はどうだろう」
と考えていた惇子さん。
たまたま出会った外国人に、
フランス語で家族を何というか?質問してみると、
「ファミリアというんですよ」
店名には最初にベビーショップという英語をつけようと皆で決めていましたが、
辞書で調べて、「familiar」という英語もあることを知ります。
familiar:より楽しい。家庭的。親友。
親しみやすくて新しいひびきに、
新しい社名は「ベビーショップ・ファミリア」とすることにしました。
英語を社名にするのは珍しかった時代に、
全国のお母さんたちから本当に愛されるベビー用品のパイオニアになろう
という惇子さん達の意気込みがうかがえますね~。
その後、ファミリアは
1951年、大阪阪急百貨店にベビー子供服初の直営店をオープン。
1956年に東京へ進出と、急成長を遂げていきます。
1970年には、スヌーピーを日本で初めて販売しました。
ファミリア製品の秘密
こちら↓↓ファミリアの赤ちゃん用肌着なんですが、
縫い目が内側ではなく外側にあります。
・・・・・・ん?裏返し??
いえいえ、
これは縫い目が赤ちゃんの柔らかい肌を刺激しないようにするための工夫なんですね~。
「赤ちゃんにも、お母さんにも、誠実な製品作り」のポリシー通り、
徹底して赤ちゃんのことを考え抜いた製品づくりが、
ファミリア躍進の理由ではないでしょうか。
そして、
ファミリアの生地は洗っても縮まないんだとか!?
孫・岡崎忠彦社長「洋裁断する前に(曲がったり縮んだりした生地を元の状態に戻す)地のしをして、そのあと生地を斜めに裁断します。このような工夫で縮まない生地を作ります。洗濯試験も他社より多く、30回行います。これはおばあちゃんの時代からのやり方で、今でも変わりません。『こだわりを捨ててはいけません』と、おばあちゃんはよく言っていたものですが、まさにその通りだと思います」
晩年、ファミリアが創業時の精神を堅持するよう、心から願っていたという惇子さん。
孫・岡崎忠彦社長「自分の子供に着せるつもりでお洋服を作りましょう。これがおばあちゃんの口癖でした。当社ではこの原点に回帰して、〝子供の可能性をクリエイトする〟を基本理念に、時代に流されない、世界で最も愛される企業になりたいと考えています。当社は今年、創立66周年を迎えました。今後も〝世の中になくてはならない会社〟として〝100年企業〟を目指したいですね」
国民的ブランドへと成長したファミリア。
惇子さん達、創業者のベビー服への思いを、
これからも受け継いでいってほしいですね!
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